発達障害の僕は休職中

発達障害当事者、休職者・休学者と僕の力になるブログです

パニック系発達障害者はアフォーダンスを利用するべし

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朝起きて、何をすればわからず混乱してしまう

そして、早めに目覚めていたにも関わらず遅刻してしまう。そんなことが一度や二度ではなかった。本当に仲がよく、“人格の出来た”友人でさえあきれ返っていた。その光景を繰り返し見て、このままではまずい、なにか工夫をしないといけないと僕は考えざるを得なかった。そしてそこで出会ったのがアフォーダンスという概念であった。

 

アフォーダンスとは何か

 

アフォーダンスとは、ジェームス・ギブソンというアメリカの知覚心理学者が提唱した概念で比較的新しいものだ。光の屈折・反射が関係してくるがここではそんな話はしない。それこそ、この記事の“アフォーダンス”が欠けてしまうからだ(あと面倒くさいからだ)。

一言で説明しよう。アフォーダンスとは、環境が、僕らの行為を促すものだ。僕らは昔からこれと生きている。具体例を出そう。


あなたは職場で電話を受けた。そして、それは上司にあてたものだったが、その上司が不在だったため伝言をすることになったとしよう。あなたはメモを取るために、机にあったペンを取り、相手が言う内容をメモし始めた。


とても普通の状況だが、ここですでにアフォーダンスは存在している。ひとつ挙げよう。あなたはとても自然にペンを取り、伝言内容をメモし始めたが、その行為自体が「ペンという環境」から引き起こされたものだといったら、馬鹿げたことだと思うだろうか?


でもそうじゃなく、僕らはペンによって書くことを「afford(=与える)」されたのだ。それは、ペンの形が「書くこと」をとてもわかりやすく表現しているからである。


事実、あなたの前にあったボールペンのペン先が、僕らの知っているような「縦方向」にはなく、「横方向(ちょうど人差し指の付け根あたり)」に存在していたら、あなたは伝言を「書くこと」をスムーズには行えてなかったのではないだろうか。

 

アフォーダンスを利用して、混乱を抑える

このアフォーダンスを利用して、なんとか遅刻を減らしたいと思った。具体的には以下のようなことだ。

 

A.かごに一式服を入れ、それに曜日を記入した付箋を貼っておく

B.ベッドから、玄関までの通り道だけは片付けておく

 

Aは、朝起きて服に迷うことが時間を食っていることに気づいてから、取り組み始めた。100均で売っているかごを5日分(あるいは7日分)買ってきて、それぞれに上から下一式、服を入れておく。そしてすべてに「月」「火」「水」・・・と書いた付箋を貼っておいた。これをやっただけで、朝の用意の時間は短縮され、混乱も減ったことでストレスが緩和された。

Bは、部屋に「通り道」をいう環境を作ることで、朝起きて混乱する僕に、「今から数十分後にあそこ(玄関)に向けて歩く」という指示を与えることが目的だった。WAIS(成人知能検査)で「ばらばらのものを、まとめ上げる能力」が、極端に低かった僕は、部屋の片づけが最高に苦手だった。翌日、朝早いとわかっていても前日に片付けられない僕は、綺麗にすることをとりあえずあきらめて、せめて遅刻しない部屋にしようと考えた。そこから生まれたのがこのBである。ひどいときは、モーゼの十戒のような部屋になるが、それでも僕は遅刻が減ったので成功だったのだと思う。

心安らかに実家で休職・休学生活を送るコツ【家事編】

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快適な休職生活を送るのに必要なのは、家族との距離感を保つこと

あなたが「早く復職したい」「今度こそ元気になりたい」と思っていればいるほど重要性を増してくるのが、快適な休職生活です。これは鬱でもそうじゃなくても同じで、休職したあなたには、ストレスを一旦少なくする必要があるのです。そこで重要なのは、休職中、家族との距離感を出来るだけ適切に保つことです。これは「休職は実家派」の人がもっとも悩む問題なのではないかなと思いますし、僕自身とても悩みました(マジきつかった・・)。しかし、三つのポイントを踏んだことでストレスを結構減らすことが出来、その分復職(復学)に向けた積極的な活動(リワーク行ってみたり・ジム通ってみたり・・etc)にエネルギーを割くことができるようになりました。その中で、まず今回報告したいのはこれです。

 家事を“わかりやすく”やろう

 解説していきます。

 

 家事であなたの「無駄な」動きを守る

 家族、特に両親はどれだけ理解があろうと、あなたの休職に関して常時冷静にふるまうことは出来ません。特にあなたのご両親が仕事をしていれば、よりあなたに向けた態度が厳しく、不安定になります。まあこれは悲しいんですけど、身に迫った現実なので対策を練らねばなりません。あなたは休職(休学)前によくがんばった。そしていま休職(休学)をしている。あなたは十分に療養する必要があるし、その権利もあるわけです。しかし両親にも、また同じく権利がある。そういった中では、僕らは自分の休職環境を確保する必要があるのです。

その環境を確保する方法のひとつが、今回紹介する「家事」を利用する手です。では、さて、まったくやらなかった(やれなかった)あなたが、突然きょう、家事をやるとどうなるか?

 家族が優しくなります。

これは大変うれしい。いつの時代も厳しい目に晒されてきた「休職者」たるわれわれは、家事をやるだけでその視線がやわらかくなり、そして実家で動きやすくなる。それは、わかりやすく復職に向けたもの(通院・リワークへ参加する・ジムに入会する・・)だけでなく、周囲にはわかりにくいもの(=もしかしたらキレられるもの)に関してもそうなのです。もしかしたらこの家事作戦でもっとも重要なのは後者かもしれません。

いかに“張り切って”休職したとしても、僕らには「無駄な」動きが必要になってくるのです。それらは周りからみたら、サボっているだけに見えるものかもしれません。でも、ゲームをしたりだとか、平日だけど昼まで寝るだとか、ネトフリで好きな海外ドラマを見るだとか、そういう復職に対して一見迂回するような動きは、僕らの療養にしっかりと貢献しています。つまり守られるべき動きなのです。

しかし、それを守る作業は休職中であっても(割合は差あれど)、僕らがやらざるを得ないわけです。そこで使えるのが今回の「家事」です。

 

家事をただやっても、家族は優しくならない

 家事のいいところは、わかりやすく家族に貢献できるところ。しかしここには、落とし穴があります。それは、誰がどの家事やったのかわからないという問題です。これはなかなか盲点なのですが、たとえばあなたが久しぶりに頑張って、午前中に皿洗いをしたとします。これで仕事から帰ってきた両親は喜ぶだろうなと、少なくとも今日は視線がやさしくなるんじゃないかと張り切って皿洗いするわけです。その姿、目に浮かぶようです。

そして午後、気持ちのいい達成感とともにゲームをやっています。「あー、やっぱり何かに貢献した後やるドラクエ11は最高だな。マルティナがさらに可愛く見えるわ」とか言いながらのびのびプレーしているわけです。しかし仕事から、帰ってきた両親はイライラしながら一言、あなたに放つわけです。

 

 

 

「ゲームするために休職しているのか?」

 

 

家事は“わかりやすく”やる

この例にある出来事は、何もせずに怒られるより、期待が大きかった分だけ心に来ます(そして結構起きる出来事です)。安心感を持って療養する必要のある僕らは、出来る限りこの状況を避けたいわけです。ではどうするべきなのか?

それは、家族が気づくように家事をやることです。ズルではなく、あなたが自分を守るために。

たとえば、家族が帰ってくる時間帯がわかっているのであれば、その直前から家事を始める。たとえば、家事に関する質問を用意しておいて、両親にぶつけてみる。別にここは質問じゃなくったっていいわけです。ふとした瞬間に、本日やった家事についての感想をつぶやいてみるだけでいい。本当にわざとらしくていいです。「あー、やっべえ今日皿洗いやったわ~。そりゃ疲れるわけだわ~。」って三十代にして言ってもいいわけです。

なぜなら家族が、休職しているあなたに求めているのは「復職に向けて、努力している“ように見える”姿」だからです。どれだけ理解があっても、週五日は仕事に行く家族は、必ずどこかでこの要望をあなたに突きつけてきます。今回紹介している家事は、その要望に応えるわかりやすい、かつ心が疲れたあなたを壊すほどには強くない手段(作業)なので、それを最大限使いましょうということをここでは言いたいわけです。だから、わかりやすく家事をする。これでwin-winなわけです。行動療法としても、家事はいいですしね。

 

 しかし無理はしない

 せっかく療養のために始めた家事を、あなたを壊す手段にする必要はありません。どうしても「0 or 100思考」になって頑張りすぎてしまう人もいるわけですが(僕もそうです)、そこは復職に向けて練習にもなると考えて少しずつやっていきましょう。家族にはそれを伝えていいと思います。「今日、家事できたけど、実はまだ本調子じゃないから明日以降できるかわからない。でも復職に向けて少しずつ練習中だから見守ってほしい。」と。なかなか言えない人はメモにさらっと書いて、目に付くところに置いておけばいいです。ここではとりあえず伝えておけば十分なのです。

 

「発達障害者」なんて辞めてしまおうという話

 

当事者研究の研究 (シリーズ ケアをひらく)

当事者研究の研究 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

発達障害ってなんだよ

 

発達障害」つらいですね。

私はは二年ほど前に都内某病院でADHDと診断されましたが、いまだにその「存在」への距離感が掴めずにいます。

まず、症状の継続性がなさすぎる。これは「当事者研究」の研究者で有名な綾屋さんも言ってたきがしますが、その特性が浮上したりしなかったりするので、周りに理解されにくい。

それから、二次障害との区別がしにくい。

多くの発達障害当事者の人は、欝や不安障害などのいわゆる二次障害を持っている人が多いんじゃないでしょうか。私もそのひとりでパニック障害を長年抱えています。

でも、これが「多分ね・・」としか言えなくて、実はADHDと診断を受ける際に、結構あいまいな形で担当医師から対応されたんですよね。

WAIS-Ⅲ(成人向け知能検査)では、能力の大きな凸凹が見つかったんですが、それでも医師からは「ASDではないから、ADHDかな~」みたいに言われたりして。それが後に尾を引いて、ただでさえクソわかりにくい二次障害との区別がさらにわからなくなっている状態です。

これが本当にきつい。というのも、なにか上手くいかないことが続いた場合に、その原因がADHDという「治らないもの」にあるのか、パニック障害(不安障害)にあるのかが判断できないので、対策が立てづらいんですよね。

 

 

 

そんな僕が休職しているという話

 

という感じで、わけのわからない発達障害らしいものを持っている僕は現在休職中です。なんで休職したのは現時点ではわからないのが現状です。ここでいう、わからないというのは、「何がストレスになっていたか」ということだけでなくて、それが前述したようにADHDにあるのか、その二次障害にあるのかわからないので、現時点で判断不可ですわ、っていう意味です。休職期間が思ったより、苦労が多いので、その経験の中で得たものを、このブログとおして書いていきたい所存でございますね。

 

前書きなげえよ。はい、本題です。 

ごちゃごちゃね、長かった。書いてる本人としても方向性が散らかりつつあったので、戻しましょう。

みなさん、発達障害捨てましょう。

って感じの題名でしたよね確かね。いや本当に僕も含めて、仮にやめちゃおうぜって本当に思ってます。すべてやめろといっているわけではありません。

発達障害が、あなたのアイデンティティなのか、呪いなのか、はたまた、ただの名前なのか、人それぞれあると思いますが、共通しているのは僕も含めて苦しんでいる、生き辛さを感じてるってことです(発達障害、チョー気持ちいい!見たいな人がいたらぜひ話し聞かせてください。)。

 

みなさん、発達障害をかっこ「」というゴミ箱に捨てましょう。

このゴミ箱はあなたの意思に反して、集積所に運ばれていったりしない優秀なものなのでご安心を。

具体的にいきましょうか。僕は、いったん「発達障害の特性だからかも・・」という自動思考を、一時停止して「」のなかに入れて保留してみてほしいんです。フッサール的に言えば、エポケーですね。

 

ぼくたちわたしたち当事者は、この「発達障害の特性だからかも・・」という思考によって、大きなものを失ってしまってると思う(もちろん僕もね)。

 

それは、実験精神です。

ぼくたちは(特に成人後に診断受けた人)、「発達障害」というものを、受け入れる体制が整ってないランキング断トツ1位な存在なんですよ。それは本人がというだけでなく、親などの家族がというのもあるけどね。これはそうでしょう。だって「生きづれえなあ」「なにか絶対おかしいなあ」って20年以上生きてきて、「はい、ADHDっす」「はい、ASDっす。治るものではないです。」って言われて、混乱しないほうがおかしいですよね。家族も「ああ、私たちが悪かったのかも、どうかもわからないけど、子供は発達障害だったらしい。」といった内容を、「オッケーっす」って了解できる親がどこにいるのかってなわけです。

といった感じで、発達障害と診断された僕たち私たちはどういう行動、思考をするのか?

 

日々の生活であいも変わらず起き続ける、困りごとに対して「これは発達障害だからなのか?いやそうじゃないのか?」という宝探しに赴くわけです。そりゃそうだ、だって発達障害わけわかんねーもん。原因が器質的なものにどれくらいあるのか人によって代わり続けているんだぜ、この障害。(精神医学系だと珍しくもないか)

 

しかし、この宝探しきりがない。しかもクソ疲れる。仕事の邪魔になるレベルなんですよね。

 

じゃあ泣き寝入りしないといけないのか?というと、ひとつ希望の路線があると僕は思っている。それは、先に書いたような実験精神を診断前以上にパワフルに発揮することだ。この発達障害界隈での実験精神という概念は、べつに僕が考えただけのことなんかではなく、当事者研究やオープンダイアローグといった流れ(ここで初めて知った人はググってみてね)の中心を貫いているものだ。もちろんこの二つは別にさまざまな要素が歩けど、つまり僕はその二つの中から自助スキル向上のヒントとして、「これは発達障害だからなのか?いやそうじゃないのか?」をゴミ箱へ保留して生活をすることで「実験精神の復活とそれによる生きづらさの軽減」を提案したい。

 

もちろんこれだけみると、発達障害に関する知識を自発的に学ぶことの否定になるんじゃないか的なことや、いやいや発達障害だから生きにくいんであってそれを仮にでも捨てろとか、お前精神論振りかざしてくるうちの親と変わらんぞ!という反論が出てくるかと思います。

 

しかし、そういったことでは全然ないということを今後説明しつつ、みんなで生き延びようというブログにしていきたいと思っています。